大使の活動グアダラハラ大学主催日本文化週間開会式における目賀田大使の基調講演

 
 

 

 

目賀田大使による基調講演
(グアダラハラ大学主催日本文化週間開会式)

 

 

平成26年5月26日
於:グアダラハラ大学講堂

 

 

偉大なハリスコ出身の壁画家であるオロスコの作品に囲まれた美しいグアダラハラ大学講堂を訪れることを日本国大使として非常に嬉しく思います。日本文化週間を開始するに誠に相応しい場所であると感じ入っております。

 

日本文化週間は様々なプログラムが用意されており、これを契機に、日本文化への理解を深めていただければ幸いです。文化週間は、1614年1月にアカプルコに到着した侍支倉常長に率いられた使節団の訪墨400年を記念する日墨交流年の行事の一環として重要な意義があります。


本日は、支倉使節団の歴史的価値のみならず、日墨関係における今日的な意義についても述べたいと思います。

 

1613年、東北地方を納めていた仙台城主である伊達政宗公は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に派遣しました。主君に忠実な支倉は、140人の日本人、40人のスペイン人及びメキシコ人乗組員や修道士を集め、サン・フアン・バウティスタと名付けたガレオン船で仙台を出帆しました。支倉使節団の主たる目的は、日本とヌエバ・エスパーニャの間に直接貿易を樹立することでした。当時の日本人が、メキシコの地政学的・経済的な重要性に注目し、日本を太平洋貿易のゲイトウエーにしようと考えていたことには感銘を受けます。また、日本にとって、メキシコが有する技術、特に伊達領での鉱山開発に応用できる技術が関心事項であったという点も重要であると考えます。

 

使節団のもう一つの目的は、伊達領内で布教するための宣教師の派遣でした。これは、徳川家康がキリスト教普及に関心を失った後、フランシスコ教会のソテロ宣教師が、他のキリスト教会との競合もあり、立場を強化すべくこのような構想を伊達政宗に働きかけるに至ったと考えられます。

 

既に申し上げたとおり、支倉使節団は、サン・フアン・バウティスタ号に乗り込み、月の浦港を出帆、三ヶ月かけて、太平洋を横断、1614年1月にアカプルコ港に到着しました。3月24日、メキシコ市に入り、副王や司教らに迎え入れられました。一行の中には、同市内のサンフランシスコ教会で、洗礼を受けた団員たちもいました。3ヶ月後、支倉と約20名は、ベラクルスよりスペインを目指して出発しました。

 

 ヨーロッパでは、 支倉は、スペインでフェリペ三世と会見し、ローマでは教皇パウロ五世に謁見し、直接貿易の実現と宣教師派遣を要請する伊達公の親書を渡しました。支倉自身も、マドリッドにて、スペイン国王臨席のもと洗礼を受け、ローマでは、公民権を付与されています。使節団は、1617年にメキシコに戻り、1618年にアカプルコ港を出発し、マニラに向かいますが、スペイン国王からの待ちわびた回答は届きませんでした。スペイン国王からの回答返事を得られないまま、仙台に戻りましたが、七年間にわたる長い旅の間に、日本の国内政策は、キリスト教全面禁止と鎖国政策に舵がとられ、支倉使節団の目的は実現しませんでした。

 

  支倉の旅は、一人の侍が、多くの困難を乗り越えて実現した正に偉業といえます。度重なる障害に屈すること無く、目的遂行のため、弛まぬ努力を続けた勇気と信念は、真の侍精神を示すものと言えましょう。

 

  学術的見地からは、使節団に関して、諸説があります。第一に、その当時既に禁教政策を開始していた徳川幕府が、使節団の派遣をなぜ認めたかという点です。第二に、使節団派遣の目的は、本当に貿易だけだったのか、他に政治的な意図があったのかという点です。第三に支倉常長は、キリスト教に改心したのは便宜上のことだったのか、心より改宗したのかという点です。

 

  さらに、17世紀半ばにここグアダラハラで活躍した二人の日本人の商人が、支倉使節団一行の一員と関係があったとの可能性があります。一人は、1595年に生まれたとされるルイス・デ・エンシオ(日本名:福地蔵人)です。当時日本では、名字を名乗ることが許されたのは、武士か商人階級の位のあったものと考えられています。また当時伊達領であった陸奥国に見られる方言で名前が示されていることから、この地域の出身であるようです。サン・フアン・バウティスタ号で支倉使節団のメンバーとしてメキシコに到着したとする説を含め、複数の説があります。いかにして、当時、ヌエバ・ガリシアと呼ばれていたグアダラハラまでやってきたのかも明らかになっていませんが、歴史家のこれまでの尽力で、グアダラハラでの生活の様子はかなり明らかになってきています。

 

  1634年、この日本人は、フランシスコ・デ・レイノソと名乗るスペイン人の小売商人と共同出資する契約を交わしています。その際、日本名を漢字で、洗礼名を平仮名で記しているのです。この契約のおかげで、ルイス・デ・エンシオは、メキシコで最初の日本人起業家として記録されたのです。契約当初、エンシオの提供できるものといえば、労働力だけでしたが、4年後の1638年には、340ペソを出資して契約更新しており、その後、ココナッツの酒とメスカルの独占販売権を取得し、成功を収めて行くのです。史実の解説については、ファルク教授の出版物をご覧頂きたいと思います。

 

  ご存知のとおり、日本は、2011年3月、未曾有の地震と津波を経験しました。実は、支倉使節団が派遣される2年前の1611年にも、同様の規模とみられる慶長三陸地震が発生しています。使節団派遣の目的を仙台藩の復興のための経済政策だったと考える説もあります。

 

  学術的観点から史実を明らかにしていくための努力を続けることは非常に重要です。伊達政宗や支倉常長自身とそのカウンターパートであった副王、スペイン王国やローマ法王側の交渉担当者の書簡や文書、日本に滞在していた修道士や使節団の観察者たちが残した資料の分析が大変重要となりますが、いずれも、マドリッドなりバチカンなどの古文書館などに保管され、古い日本語、スペイン語、もしくはラテン語で書かれているので、日本、メキシコ、そして欧州の研究者たちの共同研究が重要になるのです。

 

  日本とメキシコの再会は、明治維新を待たなくてはなりませんでしたが、両国はすぐに友好関係築き上げました。メキシコは、日本にとって、常に外交の地平を切り拓く役割を果たしてくれています。メキシコは、初の平等な通商航海条約を署名してくれた国ですし、日本からの国策移民を受け入れた中南米で最初の国でもあります。また、1917年から1928年の間、自国の医師免許で相手国において開業できる医業自由営業協定を締結した唯一の国でもあります。さらに、第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約の発効、国連への加盟をいち早く支持してくれました。

 

  1952年、オクタビオ・パスが東京の大使館を再開するために臨時代理大使として派遣され、帰国後も日本の国際社会への、日墨間の友好関係と文化交流の強化に尽力してくれました。今日も二国間関係は、力強く発展を続けています。

 

グアダラハラ市と京都市の姉妹都市関係を含む市民間交流やグアダラハラ大学と日本のいくつかの大学の間の交流を含む学術レベルの交流が幅広く行われています。二国間貿易は、2005年に経済連携協定が発効して以来劇的に増加しており、現在自動車産業分野を中心に日本の対メキシコ投資ブームが生じています。

 

  両国は、また、民主主義、人権、法の支配、国際紛争の平和的解決といった基本的価値を共有するグローバルな戦略的パートナーでもあります。

 

  やや反語のように聞こえるかもしれませんが、支倉使節団の使命は4世紀を経て実現したと確信します。本日、ここで、グアダラハラ大学とともに、このような日本文化行事を共催していることが、まさにその証と言えるでしょう。

 

本日ここ記念すべき文化行事が始まることを喜ばしく思います。日本文化週間では、様々なシンポジウムや経済フォーラム、俳句や武道に関する公演や、学生交流、日本人のメキシコにおける足跡について等盛りだくさんの内容です。コンサートや演劇、映画、茶道、日本食紹介もあり、きっと楽しむことができると思います。

 

つきましては、グアダラハラ大学、特に、ブラボ・パデイージャ学長そして、ハリスコ州政府に対し、日本とメキシコ、日本とハリスコ州、そして特に日本とグアダラハラとの間の友好の絆を更に強め、相互理解を大いに深めることに貢献するこの素晴らしい行事を開催して頂きましたことに、改めて深い感謝の意を表明させて頂きたいと思います。

 

ご静聴ありがとうございました。

 

 
 
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