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メキシコ市案内 |
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1.メキシコ市の概要
2.市内の名所、観光スポット
3.ピラミッド(テオティワカン)(Teotihuacan)
4.日本メキシコ学院(リセオ)(Liceo
Mexicano-Japones)
5.日墨会館 |
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メキシコ合衆国の首都であり、メキシコの政治、経済、文化の中心地である。行政上の連邦区(DF)のみなら人口約850万であるが、大都市圏の人口は約2000万とも言われ、目下、サンパウロとともに人口では世界最大級の都市である。盆地の底にあたる部分でも海抜2,240m。周囲を高峰に囲まれており、特に東方にはポポカテペトル、イスタシワトルという万年雪を頂いた5,400m級の秀峰(火山)があるが、残念ながらスモッグのために普段は市内から見ることができない。
15世紀、北方から移動してきたアステカ族は、アナウァク盆地にあるテスココ湖の湖上の島に、サボテンの上で鷲が蛇をくわえている光景を目撃し、部族の伝説に従ってこの地に定住することになり、神殿を中心とした湖上都市テノチティトランを建設し、アステカ王国の首府とした。
即ち、当時は現在のメキシコ市及びその周辺は湖であり、その湖上の島、つまり、現在憲法広場となっている場所及びその周辺にアステカ王の宮殿や巨大なピラミッドが建立されたのである。1521年にエルナン・コルテスが初めてテノチティトランを見た時、スペインのセビリャ以上に美しいと驚嘆したと言われている。
エルナン・コルテス率いるスペイン軍の侵攻によりアステカ王国は滅亡し、首都テノチティトランは跡形もなく破壊され、その廃墟にスペイン人は、植民地都市を築いた。これは、現在の憲法広場(ソカロ)の辺りである。
植民地時代は、ペルーのリマとともにスペインの新大陸当地の中心地であった。また、都市の拡大とともに湖は次第に埋め立てられた。メキシコ市が地震に弱いのは、もともと湖であったためである。
現在、憲法広場周辺には主要官庁や国会議事堂及びメキシコ市庁舎があり、メキシコの政治の心臓部となっている。そして、レフォルマ通りとインスルヘンテス通りという二つの幹線道路がそれぞれ東西及び南北に走り、この二つの通りから幾多の道路が四方に延びている。
「メヒコ」という国名は、アステカ族が自からを「メシカ」と称していたことに由来する。また、国旗の中央に「サボテンの上に蛇をくわえた鷲(アステカの鷲)」が描かれているのは、前記のアステカ建国伝説を象徴したものである。 |
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(1)憲法広場(ソカロ)(Plaza
de la Constitucion, Zocalo)
メキシコ市の中心はソカロと呼ばれる大広場で、正式名称は「憲法広場」という。同広場は、スペインに征服される以前はアステカ王朝の中心地であり、神殿がそびえていたが、現在はソカロの北側にある中央寺院(Catedral)に接して旧アステカ王朝の遺跡(Templo
Mayor)が発掘され、一般公開されている。東側には大統領政庁(Palacio
Nacional)があり、また南側には市庁舎、西側には植民地時代の建物が並び、この広場を囲んでいる。 |
(2)テンプロ・マヨール(Templo
Mayor)・博物館
メキシコ市の中心部ソカロ(憲法広場)に隣接した、アステカの大神殿遺跡。1978年に発見された。付属の博物館には復元模型及び多数の出土品が展示されている。
月曜日休館、入館時間は午前9時~午後4時30分。 |
(3)カテドラル(Catedral
Metropolitana de Mexico)
憲法広場の北側に位置する米州大陸最古、かつ、最大のカテドラルであり、その敷地はアステカ民族祭場の中庭であったものと信じられている。このカテドラルは1573年に起工され、1813年に竣工したが、1894年の地震で破壊されその後修理が行われた。建物の奥行きは110メートル、幅55メートル、高さは29メートルである。内部はギリシャ=ローマ・スタイルの石で装飾されている。正面の扉は通常開かれていない。
このカテドラルの右隣にはサグラリオ(Sagrario)と呼ばれる礼拝堂がある。これは1749年に起工され、1768年に完成した。正面及び内部はバロック建築様式である。 |
(4)国立芸術院(Palacio
de Bellas Artes)
1934年に完成。使用された大理石はすべてイタリアから輸入されたものである。白亜の殿堂にはコンサートや民族舞踊のための壮麗な劇場があり、またメキシコの代表的壁画家達の作品が一堂に集められている。地盤が軟弱なため建設当時より現在2メートルほど沈下している。 |
(5)レフォルマ通り(Paseo
de la Reforma)
メキシコ市のほぼ東西を走るレフォルマ通りは、19世紀中頃にフランスがメキシコに武力介入した際、ナポレオン3世の命を受けてメキシコに派遣されたマクシミリアン皇帝がパリのシャンゼリゼ通りに似せて作らせたと言われる。近年の著しい経済発展を象徴する感があり、まさにメキシコ経済の中心地である。
幅広い歩道が樹木で覆われている同通りの交差点には、コロンブス、クワウテモック(アステカ最後の王)、独立記念塔など、メキシコの歴史上に残る偉大な人物の銅像や記念碑がそびえ立っている。 |
(6)独立記念塔(Monumento
a la Independencia)
独立記念塔は、1810年に始まり1821年に終わったメキシコのスペインからの独立戦争を記念して建立された。1902年1月3日ポルフィリオ・ディアス大統領により起工され、1910年9月16日に独立戦争勃発100周年を記念して除幕式が行われた。塔の台石は四方形で、各々の隅に「法」、「正義」、「戦争」、「平和」を表す彫像及びメキシコ独立戦争の英雄であるイダルゴ、モレーロス、ゲレーロ、ミナ、ブラーボの像が立っている。塔の高さは36メートルで、頂上には独立の象徴であるエンジェル(金メッキのブロンズ、重さ17トン、全長6.7メートル)がある。 |
(7)チャプルテペック公園(Bosque
de Chapultepec)
メキシコ市の西部に位置するチャプルテペック公園は、「チャプルテペックの森」と呼ばれ、市街地公園としては世界最大規模を誇る。全長及び全幅はそれぞれ約1キロ半に及び、メキシコ市を東西に横切るレフォルマ通りが、また、南北に走る環状高速道路(Periferico)が、それぞれ同公園を東西南北に2つに分けている。700年以上の歴史を持ち、かつてはアステカ国王の憩いの場所でもあった旧公園には、チャプルテペック城、人類学博物館、近代美術館、ルフィノ・タマヨ美術館等々、また湖の周辺には動物園、遊園地などもある。現在は、憩いと娯楽及び文化の中心としてメキシコ市民に親しまれている。また、大統領官邸も旧公園の一角に位置する。新公園は歴史も新しく数年前に建設されたもので、種々の娯楽施設がある。 |
(8)国立人類学博物館(Museo
Nacional de Antropologia)
同博物館は、ロペス・マテオス元大統領が任期を終えるにあたり、メキシコ国民のために記念となる物を残したいと望み、建築家ラミーレス・バスケス氏の設計により1964年に建設された。 |
(9)サンフランシスコ教会(Iglesia
de San Francisco)
1614年、伊達政宗の命を受けた支倉常長は、当時ヌエバ・エスパーニャと呼ばれていたメキシコと交易するための許しを求め、スペインに赴くため、メキシコを訪問し、アカプルコからベラクルスまで横断した。途中、交易を行うためにはカトリックにならねばならないという当時のメキシコ総督の勧めによって支倉の臣下78名が、現在のラテンアメリカ・タワーのそばのマデーロ通りに面したこの教会でカトリックに改宗した。 |
(10)闘牛場(Plaza
de Toros)
市内に闘牛場が2カ所あるが、その一つはプラサ・デ・メヒコで、世界最大の規模を誇り、収容人員は5万人と言われている。闘牛は毎日曜日の午後4時ないし4時30分から開始される。例年12月から4月までが一流の闘牛士(スペイン闘牛のオフシーズンに来墨)の出場するシーズンである。その他の月は、若い闘牛士が出場している。 |
(11)大学都市(Ciudad
Universitaria)
メキシコ市の南方にあり、溶岩地帯を切り開いた50万坪の土地に建設されたモダンなビル群からなる国立の総合大学である。アレマン大統領時代(1946年~1952年)に完成し、建造物の斬新さと壁画が有名である。特にモザイク壁画のある図書館は良く知られている。学生の数は約25万人である。
主要な建造物としては、スタジアム(1968年のオリンピックのために改修・拡大、10万人収容)、大学総長事務局ビル(シケイロスが描いた「人民のための大学」壁画が有名)、図書館(オゴルマンが描いた古代から現代までのメキシコ歴史の壁画が有名、蔵書200万冊)等があり、合計38の建造物がある。 |
(12)グァダルーペ聖母寺院(Basilica
de la Virgen de Guadalupe)
メキシコ市中心部から北東約6キロに位置し、全米州大陸のカトリック信者守護聖人であり、先住民の顔をした聖母グァダルーペが祀ってある。この寺院はフランスの
Lourdes、ポルトガルのFatima、アラブのMecca及びユダヤの Walling
Wallに匹敵する。先住民フアン・ディエゴ(Juan Diego :1474年生、74歳で死亡)が1531年12月9日に聖母マリアのお告げを聞き、その希望によって建立したものであると言われている。
寺院中の主な建物は、1709年に建立された Basilica で、内部は大理石、金、青銅、銀及びダイヤモンドで装飾されているが、地盤沈下が激しく老朽化が著しかったため、1976年末、境内に新寺院が建立された。
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3.ピラミッド(テオティワカン)(Teotihuacan) |
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メキシコ市の北東約50キロ(車で約1時間)のところに、メキシコを代表する古代遺跡の一つであるテオティワカンの遺跡(12平方km)がある。この地域には、紀元前5世紀頃から集落ができ始め、紀元前150年頃より紀元8世紀にかけてテオティワカン族の文化栄えた。最盛期の5世紀頃には、推定約100,000人が住んでいたと言われている。
この遺跡には南北に走る「死者の道」(全長3km)と呼ばれる大通りがあり、この大通りの周辺にピラミッド、神殿及び住居跡が点在している。
その中で主要かつ最大の建築物は、「太陽のピラミッド」(高さ65m、基底の一辺220m、容積100万立方m)であり、紀元1世紀頃の建造とされる。最上部からの声が下によく届き、神官が祭司を行っていたと考えられている。また、「死者の道」の北端には「月のピラミッド」(高さ42m)があり、紀元前1世紀から紀元前後の築造と考えられている。これらのピラミッドは、エジプトのものと異なり太陽や月を拝む拝殿であると言われていたが、最近、日本人考古学者の調査により、高位の人物の墳墓が内部に発見されている。
更に「死者の道」の南端には、一辺400mの城塞があり、その奥の正面にトルテカ族や、その後に現れたアステカ族の一守護神ともなったケツァルコアトル(羽毛のある蛇)を祭った怪奇な蛇の彫刻のある神殿がある。この他にジャガーの神殿、羽根のついたカタツムリの宮殿、神話動物の神殿、蝶の宮殿、ジャガーの宮殿などの遺跡がある。
テオティワカン文化は8世紀には衰退し、都市は放棄された。15世紀にアステカ族がこの地に進出した頃には廃墟となっていたが、アステカ族は、その壮大さ故に「人間が神に変わる場所」との意味で、テオティワカンと名付けたとされている。
(注)見学時間:午前9時~午後6時(但し建築物への入場は17時まで)
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4.日本メキシコ学院(リセオ)(Liceo
Mexicano-Japones) |
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メキシコに在住する日系人及び日本人の間では、かねがねメキシコと日本の両国の文化がより親密に結ばれて欲しいとの熱い願いがあり、当時はその架け橋としてタクバヤ学園、タクバ学園、中央学園、そして現在の日墨学院の母体であるメキシコ日本人学校が存在していた。
1974年5月、ブラボ・アウハ教育大臣が日本を訪問し、奥野文部大臣と会談した際、日本メキシコ学院の設立が提唱された。そして、同年9月、メキシコを訪問した田中総理とエチェベリア大統領との会談の結果、共同声明において「日本メキシコ学院の設立は両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨が発表された。長年にわたり学院建設を熱望していた進出企業と日系社会は一体となって、同年9月29日メキシコ国法による社団法人日本メキシコ学院「Liceo
Mexicano-Japones,A.C.」を設立し、登記を行った。これを契機にメキシコに関係の深い企業、日系人等からの寄付と日本政府援助金を合わせ、76年春建設工事が着工された。
1977年9月29日、同学院は約640名の生徒を集めて開校し、以来国際人育成のための教育を標榜し、日墨両子弟の教育を一貫して実施し、もって教育交流と相互理解に貢献してきた。同学院の生徒は、1000名強を数える。同学院の授業コースとしては、長期在留邦人の子弟のために日本の文部省カリキュラムに準拠した日本コース(小・中学校生徒数142名(2003年11月現在)))、メキシコのカリキュラムによるメキシココース(小・中・高校生徒数750名(2003年4月現在))、及び日本・メキシコ共学の幼稚園(園児数170名(2003年4月現在))がある。
学院は、上記日本コース及びメキシココース、並びに文化センターの3つのセクションから成り立っている。
(1)日本コースは、小学部及び中学部を持ち、日本文部省の教育課程に準拠し、日本の義務教育を行うとともに、スペイン語及びメキシコ理解学習を実施。日本人子弟が中心となる。新学期は日本国内と同様に4月より始まる。
(2)メキシココースは、小学部、中学部、高校部を持ち、メキシコ教育省の教育課程に準拠した教育を行うとともに、日本語及び日本文化学習を実施。日系人子弟を含むメキシコ人子弟が中心となっている。新学期は9月に始まる。
(3)文化センターは、両コースの中間に位置して架け橋的役割をもつもので、幼稚部、日本語教育部、国際交流部、クラブ活動の4部門をかかえ、両国文化交流の促進を図っている。幼児教育、メキシココースの日本語及び日本文化学習、院内外の交流活動、異文化理解教育、各種研究会・交歓会、院内外の一般成人向け文化講演会・講習会、諸外国への研修旅行、クラブ活動の指導など、広範な文化交流活動を実施している。
学院の最高機関たる「会員総会」は、同数の在住日系個人会員と進出企業会員により構成され、2年毎に理事の選出を行う。「理事会」は学院の運営に当たる中心機関である。
敷地面積は36,880平方mであり、普通教室64教室(この他に物理、音楽、視聴覚室等の特別教室15教室あり)、講堂、体育館、200mトラックをもつ運動場、球技場、25m屋内プール、駐車場等を備えている。 |
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日本人移住者、日系人がメキシコ人との親善・相互扶助を目的として1957年に発足させた日系コロニアの中心団体である日墨協会により、第二次世界大戦中凍結されていた我が国政府の資産がメキシコから返還されたの機会に、在留邦人からの寄付も合わせ、
1959年に日本・メキシコ両国の文化交流の殿堂として建設された。
約2万平方mの敷地内には、会館本館の他、枯山水風の日本庭園、プール、テニスコート、児童遊園地が設けられ、また、87年にはメキシコ移住90周年を記念して、日墨交流会館、茶室、供養塔等も設置された。本館内には、レストラン、大ホール、日本間等がある。
同会館は、主に、会員の会費(会員は930名程)、レストランの売り上げ及び寄付により運営されている。
因みに、メキシコ全国の在留邦人数は、2010年10月現在で6,937名で、うち長期滞在者は4,816名、永住者は2,121名である。他の国では見られない昼間のみ滞在する邦人が、米国との国境地帯(ティファナ、メヒカリ、シウダ・フアレス、レイノサ等)に1,000人以上いる。また、在留日系人数は1万6千人以上と推定され、メキシコ市及びその近郊に6千人以上が在留すると推定される。 |
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